零点(ゼロ・ポイント)6万人スタジアムコンサート

2003年10月17日、北京工人体育場、そのキャパ6万人。

台湾や香港のアーティストはここでコンサートを開いたりしたが、大陸のアーティストでここでソロコンサートをやれた人はいなかった。

中国のロック史、いやポピュラー音楽史に残る偉業を彼らは果たしたと言えよう。


零点(ゼロ・ポイント)とは

中国のロックの歴史は86年に崔健(ツイ・ジェン)が「一無所有(イーウースオヨウ)」を発表してから始まると言われている。

「俺は何一つ所有してないんだ」と言う意味アリなこの歌は、天安門事件の時、天安門広場で学生たちに歌われ、

崔健(ツイ・ジェン)自身も慰問に来て歌ったりしたことから、

海外のマスコミでは彼のことを「反体制の旗手」として報道し、彼の活動は次第に不自由になってゆく。

関連ネタhttps://www.funkycorp.jp/funky/fixed/live.html

そんな彼のイバラの道を横で見ながら商業的に大成功を収めたのが黒豹(ヘイ・バオ)に代表される次の世代のロッカー達である。

関連ネタhttps://www.funkycorp.jp/funky/fixed/rec.html

その商業的な成功を見て内モンゴルの田舎から北京に出てきた5人組が零点(ゼロ・ポイント)である。

長屋のような北京の四合院でメンバー5人で共同生活をしながら、

憧れの黒豹(ヘイ・バオ)に追いつけ追い越せとばかり、やっとアルバムデビュー。

そしてその後にリリースした「愛不愛我」は爆発的なヒットとなり、文字通り黒豹(ヘイ・バオ)を完全に商業的に追い越してしまい、

結果的には黒豹(ヘイ・バオ)が作り上げた「ポップロック」とも言うべき路線を完全に独占してしまい、

ある意味彼らが中国のロックの歴史に終止符を打ったと言っても過言ではないだろう。

その後彼らは宿命的にどんどんと「歌謡ロック」の道を突き進み、実質彼らより「売れている」バンドは存在しないほどになった。

人々は「あれはロックではない」と陰口を叩き、彼らは文字通り「売れている」ことだけが存在理由のバンドに成り下がった。

「このままでは潰れる!」

「解散」と言う二文字が脳裏によぎりながら、

新しい方向への模索として、彼らの歴史始まって以来初めて「プロデューサー」の起用を考え付いた。

白羽の矢が当たったのは日本人ドラマー、ファンキー末吉、つまり私であるが、

その運命のミーティングの場所はキャバレーの個室であった・・・おっぱいを触りながら・・・

関連ネタhttps://www.funkycorp.jp/funky/ML/78.html

そして彼らのバンド生命の全てをかけて出来上がったのがこのアルバム。

なんと、ミックスダウンはLAまで行って、ドッケンのプロデューサー、そしてあのガンズを録音したエンジニア、ウェイン・デイヴィスに依頼する。

これは彼らがウェインの録音したXYZの音を聞いて、「金はいくらかかってもいい!この音を作ってくれ」と言ったからである。

しかしこの時に、この全ての予算は彼ら本人から持ち出しで出すと言うところまでは知らなかった。

LAでのトラックダウンのこぼれ話https://www.funkycorp.jp/funky/ML/88.html

 

かくしてアルバムは出来上がった!

後はやるやると言っていたスタジアムコンサートを成功させれば、彼らのステイタスはまた更に一歩上がる!

しかしこの日取りがなかなか決まらない。

決定だと言いながら、「あの日はサッカーの試合が入ってたから・・・」

ちゃんと小屋を押さえてから「決定」と言って欲しいんですけど・・・

結局大決定になったのは本番の1ヶ月前、大々的にアルバムの発売とこのライブの告知を兼ねてコンベンションライブが行われた。

関連ネタhttps://www.funkycorp.jp/funky/ML/90.html

 

こうも大々的に発表したと言うことはもう「大決定」と言うことである。

長くスケジュールを押さえていたウェイン・デイヴィスを北京に招くべくチケットを算段する。

この歴史的なライブをCD、VCD、DVDにして残すのである。

アルバムと同様ウェイン・デイヴィスにライブ・レコーディングをお願いした。

 

ところがここで問題が発生!

この写真を見て頂きたい。XYZのLAレコーディングのところの写真なのであるが、

左がかのウェイン・デイヴィス、真ん中が私、そして右が二井原実・・・

デブと言うよりあまりに巨大過ぎて飛行機に乗れないのである!!!!

(二井原実を大きさ比較のマッチ箱に使ってしまった)

 

仕方がないので飛行機のチケットを2席買って彼に北京にやって来てもらった。


ウェイン・デイヴィス来北京日記

さて米国では偉大なエンジニア・プロデューサーである、ウェイン・デイヴィス、

ラウドネスがアメリカで成功したがために二井原実と知り合い、

そのおかげでXYZのレコーディングをするハメとなり、

そしてそれをきっかけに飛行機の2座席を使って北京にまで来るハメとなる。

もちろん彼にとってアジアは初めての体験であった。


2003年10月14日

 

ところが空港にてLAから持って来てもらった録音機材を没収されてしまう!!!

(没収されたプロトゥールスのインターフェイス)

 

それがウェイン・デイヴィス初のアジアの旅の第一歩であった。

空港から電話をかけて来るウェイン、そしてリハーサルスタジオでそれを受ける私、

「メイウェンティー!」(ノープロブレム!)

こちらではコネで全てが解決出来るから心配するなと説明する。

不安のままホテルにチェック・インし、そのままリハーサル会場にて最終リハーサルに参加、終了後録音機材の打ち合わせとなる。

「ファンキー、録音機材が全然足りまへんがな!」

ここに来て初めてPAの回線チェックとそれに伴う録音機材のチェック。

結局没収されたインターフェイスが戻って来ても、さらに3台と更にバックアップ用に回すDA88が2台足りない。

「メイウェンティー!」(ノープロブレム!)

明日一緒に探そう!でその日は終了。

北京では全ての機材は友人を介して調達する。明日にならなければ何も動き出さないのである。


2003年10月15日

 

朝からホテルのロビーでミーティング。

「じゃあ機材は今から調達に行くとして、それをつなぐケーブルはあるのか?」

こんな巨大なコンサートがしょっちゅうあるわけではないので、それ専用の録音設備はもとより、そんな長いケーブルは常備されていない。

仕方がないので担当者を決めて、工人を雇ってケーブルをいちからハンダ付けで作らせる。

「用意した録音車の機材リストをくれ」

すんまへん、こちらでは一番の録音車の連絡先も担当者の携帯電話一本なのよ。実際見に行って自分で確かめるしかないのよ。

中央電視台(日本のNHKに当たる)所有の録音車の内部。32chで通常なら十分だが、この規模のステージではやはり機材が足りない。

「ファンキー、ビデオとのシンクはどうするんだ?SMTP信号は?・・・」

そんなもんワシに聞かれても知りまへん!!

「ウェイン、いい中国語を教えてやろう。”メイバンファ”、すなわち”しゃーない!”。

ビデオのスタッフがまだ香港から来てないんだから、それを今どーこー言っても始まりまへん!まずは録音がちゃんと出来てからっつうこって」

その後、ウェインはこの「メイウェンティー!」(ノープロブレム!)と「メイバンファ」(しゃーない!)の応酬に悩まされることとなる。

 

一日中走り回って、友人と言う友人を全て当たって機材を調達したが、結局最後の最後にインターフェースが1台足りない。

もう深夜である。メンバーは全てのスタッフとホテルの会議室で最終ミーティング中。

途方に暮れてロビーで立ちつくすウェイン・と私たち。

ロビーにはどこから聞きつけたのか小学生ぐらいの女の子の追っかけが彼らを待ってずーっと座っている。

メンバーが私と打ち合わせに出てくる度にサインをねだる。

「どっから来たの?」

ベーシストの王笑東がサインをしながら彼女に尋ねる。

「東北」

列車に何時間も揺られて明日のコンサートのためにやって来たと言う。

「チケット持ってんの?」

「ううん?」

「ちょっと待ってろ」

会議室の中に入って行った彼は1枚のチケットを持って来て彼女に渡す。

見れば500元(約7000円)の一番いい席のチケットである。

500元と言えば、ヘタしたら彼女の月収に相当する金額。

びっくりして泣き出す彼女。「じゃあ早く帰りなさい」と頭をなでて会議室に戻る王笑東。

いいものを見た・・・

「んで?機材は?・・・」

冷静なアメリカ人、ウェイン。

万策尽きた私たちの前にレコード会社の社長が現れる。

「お困りですか、よかったら私のスタジオの機材を使って下さいな」

地獄に仏である。ウェインはすぐさまタクシーに乗り、彼のスタジオへ・・・こうして現場リハーサルの前日には全て機材が揃ったのである。

(しかしこの段階でまだ誰も没収されたウェインの機材を取りに行ってない・・・)


2003年10月16日(コンサート前日)

現場に着いて、とりあえず録音車でメシである。

空港に機材を取りに行くスタッフ、工人と一緒にひたすらケーブルを作っているスタッフ、そしてひたすらメシを段取りするスタッフ。

現場ではステージが1週間前から組まれていて、本番前日であるこの日もたくさんの人間がステージ作りに追われている。

この規模のコンサートを制作する能力と機材はあっても、それをつなぐケーブルがないかったり、

この国には相変わらず驚かされることばかりである。

 

実はこの段階でまだオーディエンスを収録するマイクが4本足りていない・・・


2003年10月17日(コンサート当日)

零点(ゼロ・ポイント)のレコード会社が香港資本と言うことで、このコンサートのスタッフは香港から集められた。

香港式に、コンサートの当日は豚の丸焼きを祭って関係者全員が無事をお祈りする。

その後このシェフによって切り分けられた豚の丸焼きを食べるのだが、私たちは食べそこねてしまった。

ケーブルはめでたくつながった。機材も揃った。しかしオーディエンスマイクがない。

「コネで何でも可能になるこの国で、なんでたった4本のマイクが3日間探して手に入らないんだ!俺が買いに行く!」

とついにウェインが切れた。

まあまあとなだめる私。しかしそんな私もサポートメンバーとしてステージに立つ。彼をほっといてリハーサルに・・・

と思ったらいきなりメンバーに呼び出され、外の音を聞いてチェックしてくれと言う。

メンバー自身外の音を聞くことが出来ないので、私にPAミキサー席で音をチェックしろと言うわけだ。

 

かくして私ぬきでリハーサルが始まる。

いいのよいいのよパーカッションだし・・・

リハーサル終了後やっと4本のオーディエンスマイクが揃った。

ウェインがそれを客席の一番音響のいいところに設置してライブが始まる。

左から、ベースの王笑東(ワン・シャオドン)、Vo.の暁欧(シャオ・オウ)、ギターの大毛(ダーマオ)

キーボードの朝洛蒙(チャオ・ルオモン)

ドラムのニ毛(アル・マオ)

ゲストとして会場を盛り上げた台湾の動力火車(パワー・ステイション)と北京の黒豹(ヘイ・バオ)

アンコールの1曲目には京劇のパフォーマンスも出演。

非常にハードなナンバーも演奏するが、基本的には歌謡ロックなので出物をどんどん出して客席を楽しませる。

そして数曲ドラムも叩いたプロデューサー(と言う名の何でも屋)

 

さて、と言うわけで、この曲が終われば私はステージを降りて、あとはメンバー5人だけで大ヒット曲の「愛不愛我」を演奏。

私はそのまま録音車に走って行ってウェインに訊ねる。

「録音は問題ない?」

バックアップとして使っていたDA88が一度トラブった以外は問題なく録音出来たそうである。

もし機材が揃わなくて、プロトゥールスシステムではなくDA88をメインに据えていたら、今回ウェインの仕事は水の泡になるところであった。

 

アンコール最後の曲。

各メンバーがそれぞれ一節づつ歌い、最後にはSEに乗せてステージを端から端まで練り歩く。

ふとモニター画面を見ると、大毛(ダー・マオ)がステージに突っ伏して泣き崩れている。

メンバー全員で彼を抱えてカーテンコール。

「なんで?・・・」

私なんぞ目前のこなさねばならないことばかりを考えていて全然冷静そのものである。

しかし彼らにしてみたらこのあまりにも大きなことを自分達だけで成し遂げてしまったのである。

その感激から最後にはメンバー全員が涙のままステージを降りる。

ステージは幕を下ろした。

心配されていた動員は5万人を超え、コンサートとしては大成功。

めでたしめでたし・・・

 

しかしウェイン・デイヴィスの仕事はむしろここから始まると言っても過言ではない。

滞在中に同じ機材で同じ音色で差し替えをしてから帰国せねばならないのだ。


2003年10月17日(コンサート翌日)

とりあえずこの日は予定通り観光

観光

しかしこの人・・・この極寒の北京、ずーっと半袖で過ごしてたんですけど・・・


2003年10月18日(差し替え予定日初日)

プレイすべきメンバーは実は翌日からツアーに行ってしまっていた・・・

私があれだけさんざん「スケジュールは大丈夫だよね」と言っていたにもかかわらず・・・

仕方がないので全データの整理。

そして夜には何とかみんなを北京に呼び戻して、とりあえずベースの差し替え終了!


2003年10月19日(差し替え予定最終日)

そしてついに強行策発動!ギターの大毛(ダーマオ)に

「お前はツアーに行くな!どうせあてぶりだろ。誰か適当なの置いてやらせとけ」

中国はライブもオムニバスが多く、あてぶりでヒット曲を数曲やるだけの場合が多いのだ。

関連ネタ

https://www.funkycorp.jp/funky/ML/47.html

https://www.funkycorp.jp/funky/ML/55.html

https://www.funkycorp.jp/funky/ML/56.html

https://www.funkycorp.jp/funky/ML/58.html

https://www.funkycorp.jp/funky/ML/59.html

https://www.funkycorp.jp/funky/ML/64.html

と言うわけでギターだけはとりあえず差し替え終了!


2003年10月20日(帰国日)

結局ギターとベースしか差し替えれず、後はこちらでやってインターネット経由で送ることになり帰国。

ツアー先からかけつけたメンバーと最後に食事して記念撮影。

メシ一緒に食えるんやったら差し替えせーよなあ・・・・

 

出発前にウェインがつぶやく、

「この国は凄いわなあ・・・「メイバンファ」(しゃーない!)だったらそりゃ「メイウェンティー!」(ノープロブレム!)だわなあ・・・」

 

コンサート終了後1ヶ月以上たった11月20日現在。まだライブ録音のミックスダウンは終わっていない・・・

To be continued......永遠に・・・


ファンキー末吉へのお便りはfunky@funkycorp.jpまで