中国のレコードビジネスの仕組み

 中国には著作権がないと言われるが、厳密に言うとそれは間違いである。ちゃんと著作権は存在し、著作権協会まで設立されている。ちなみにカセットテープが1本売れるとだいたい1元(20円ぐらい)著作権者の手に入ることになっている。

 ちなみにレコード会社とはいわゆる販売網だけを提供している会社である。必然的にレコードを出そうと思ったら、原盤をレコード会社に持ち込むことになる。自分で金を集めて来て録音するか、もしくはスポンサーを見つけて来て(そこが原盤会社と言うことになる)レコーディングしてそれを持ち込む。レコード会社はそれがどれぐらい売れるかを算盤はじいて、それに見合う枚数分のアドバンス金(前渡し金)を支払う。

 また中国ではだいたい1枚のレコードを日本円でだいたい100万円で作ってしまう。つまり5万枚のアドバンスが取れれば、作れば作るほど確実に儲かると言うわけだ。こうなって初めて「食っていける」ミュージシャンと言うことになる。前作が売れたら次作はもっとアドバンスが取れるわけだからさらに儲かると言うことになる。

 それじゃあもしそれが大化けに化けて100万枚売れたとしたらどうなるか。一応レコード会社はさらに1枚1元分の印税を支払わなければならない。これは法律でちゃんと明記されている。

 ところが多くのレコード会社は口を揃えてこう言う。

「まだ5万枚しか売れてないんです」

「じゃああとの95万枚は何なの」

「きっと海賊版ですよ。しょうがないですねえ」

 そう言いながら実はそこの輪転機でコピーされていることも少なくない。


 さてそこでこのアルバムの成果を見て欲しい。

1997年春発売

アーティスト:

発売元:

イニシャル:

 

Funky末吉

中国広洲唱片公司

8万枚

中国のレコード店に並ぶ同レコード

 デビューアルバムからすでに「食っていける」以上のイニシャルをつけていると言うわけである。

 日本では「公称○○枚」と言う言い方をするが、ここ中国ではどうもそれが言いにくい。発売翌日にコピーされて海賊版が出回るお国柄である。裏情報によると、実際の工場からの出荷数が発売その週で4万枚を超えてたと言うから市場に出回っている数たるや今やいかほどの物か。

中国最大の音楽雑誌「音像世界」の裏表紙を飾る


 さてそんな中、私がプロデュースした新人がいる。

李慧珍

(日本版は1997年5月発売)

1997年春デビュー

アルバムタイトル曲「在等待」12週連続チャートイン

北京、上海等各地で1位獲得

Don't Break My Heart」12週連続チャートイン

ある時期2曲同時にチャートインしていた

現在(7月現在)もなおチャートにいる

次に送り込まれる曲は「Let Me Be Free」の予定

なおこの曲は「亜洲鼓魂」にも収録されている

 

 


チャート表

チャートの
仕組み
中国は日本と違いシングルと言う概念がない。アルバムを切って、その中から一押し曲を放送局に配ってチャートに入れる。そしてその人気曲でアルバムを引っ張って、さらにはそのアルバムの中から次に押す曲をまチャートにほうり込む。リリースのサイクルは日本と比べて極めて遅く、この広い中国全土で売るためには数年を費やすことも少なくない。逆に言えばリリースし続けなくても食っていけると言うわけである。

 

在等待

北京地区:

中国歌曲チャート:4位

中央電視台文芸チャート:1位

中央電視台今月のチャート:4位

西南地区:

岷江音楽台岷江チャート:3位

 

猜愛(Don't Break My Heart)

全国総合チャート:8位

(ちなみに7位は私がドラムを叩いた曲)

北京地区:

広東音楽台チャート:6位

華南地区:

広西電台衛星新曲チャート:4位

西北地区:

西安音楽台西安チャート:5位

新彊音楽台歌曲チャート:3位

チベット電台オリジナル楽曲チャート:2位

華東地区:

江蘇文芸台オリジナル音楽チャート:8位

江西信息台ゴールデンチャート:7位

揚州新聞台レインボーチャート:7位

アモン音楽台ヒット曲チャート:5位

斎魯の声連合チャート:9位

蘇中ヒット曲新曲チャート:4位

東北地区:

遼寧商業信息台CIBチャート:4位

黒龍江文芸台ゴールデンチャート:6位

華北地区:

天津文芸台オリジナル楽曲チャート:8位

天津音楽台オリジナル音楽チャート:5位

華中地区:

中原総合チャート:1位

 

 さて作曲者の欄は「Funky末吉」ではなく「方奇」。これは「Funky」に音を似せた中国名で、もう最近ではクレジットはすべて「方奇」ある。これにより、日本に入って来る情報だけでこれがFunky末吉であることを想像することは難しいので日本で騒がれることはない。ま、いいか。

 中国名を使うのはふたつの理由がある。ひとつは完璧に中国人だと思われてた方が政府筋に対する許可うんぬんが便利であること。そしてあとひとつは私は将来は中国に住み、中国人として生活してゆくつもりだからである。現在日本一物価の高い国に住んでこの中国で仕事をしている。実入りの程は想像に難くない。要はこれを逆転させればいいのである。中国に住んで日本で仕事をやる。これこそ我が理想!

和僑のススメ  中国人は自分の国が住みにくいとわかったら華僑としてどんどん外国に出て行った。その後の発展はご存知の通りである。ところで日本のみなさん。今の日本ってあなたにとって住みやすいですか。少なくとも私はこの日本の音楽界で好きな音楽をやってゆくのはとてつもなく不自由だ。私が中国にハマったのは、向こうで出会ったロックミュージシャン達が、この「自由の国」とされている日本の一ドラマーよりも精神的にはもっと自由にロックをやっていたことである。

 プロと言うからには食っていかねばならない。物を売ってなんぼの世界である。でもこのマーケッティングリサーチの確立した日本で音楽を売ると言うことは、売れるある種のジャンルに自分の音楽を入れ込んでゆく努力をすると言うことである。でも中国は違う。その証拠にロックが爆発的に売れた。電波にも乗らない、演奏活動もままならない、そんな損な音楽が今ほど売れるなど当時誰が想像しただろう。

 中国ではクオリティーの高い音楽ならジャンルに関係なく売れる可能性があるのである。李慧珍のブレイクはそう言う意味ではたまたま私のやりたかった音楽が人民が一番欲する音楽だったと言うだけかもしれない。移り変わりの激しいこの中国で、今一番新しい私の愛するロック、それがいつの日かもうすぐ古臭いと言われる音楽になる日が来るかも知れない。そうしたら私はまた自分のやりたい音楽が出来る土地に行こう。どうせ世界中どこにでも中華街はあるのだから。

 印税よこせ!と叫びたくなる時もある。でもいつもこう自分に言い聞かせてやせ我慢している。

 俺は金のために音楽をしてるわけじゃない。やりたい音楽が出来て酒が飲めて、それで友達がいれば人生それだけでいい。その上今みたいに何億人の人間がその信じる音楽を愛してくれている、なんと幸せなことじゃないか。

 結局李慧珍は1997年の新人賞を総ナメにした。このアルバムからは結局6曲がチャートインし、彼女はその年の10個の音楽賞をとった。いまだにインタビューではこう答えている。

「誰も相手にしてくれなかった私をファンキーだけが相手にしてくれた。ファンキーがいなかったら私はいまだに誰からも相手にされていないだろう」

 最近会った時、めずらしく真顔で俺にこう言った。

「あなたのおかげで私はここまで来れた。あなたこそ私の貴人よ」

 これでまた旨い酒が飲めると言うもんだ。


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