ファンキー末吉とその仲間達のひとり言

----第43号----

2001/06/11 08:10

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イビキの手術は無事成功!
でも人と一緒に寝てないのでイビキが治っているかどうかはまだ未定!
誰か一緒に寝てくれる人募集!

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退院して痩せました。
そりゃそーじゃ。痛くてモノがノドを通らんかった・・・
昨日、引越しも無事終了し、退院後初めて酒を飲んだ。

HPやメルマガで募集して集まった人14名。
みんなで一日作業して、そのまま銭湯にザブン!
いやー・・・気持ちいいねえ・・・
その後ビールを我慢できるほどワシは精神力が強くはない。
まだノドにしみようが、傷を悪化させようが、
そのまま全員でJazz屋に行って乾杯!
いやー・・・久々の酒はうまい!

嫁と子供も昨日の飛行機で無事に北京に帰り、
あとは部屋の賃貸しの手続きをやってしまえば、それでおしまい。
俺の日本での住家は晴れて「ナシ」と言うことになる。

憧れの宿無し生活である。

以下は三井はんと大村はんの2ndに入れようとしている。
「デビット・リンドレー」の「RAG BAG」と言うブルースの日本語詞。

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  RAG BAG(ボロボロ紙袋)

    Huuu… Huuu…

    俺が立ってる 道端が寝ぐら
    泥水だらけの 道端が寝ぐら
    この狭いドブで 寝るのが最高
      風呂に入らない ヒゲ剃らない
      何の心配もしなくていい
      その日暮らしの 野良猫みたいさ
      Huuu… Huuu…

    街の灯りが 点っては消える
    今夜も明日も またその次の日も
    働きづくめの 誰もが叫びたいのさ
      会社サボりたい! 嫁いらない!
      子供なんかは とんでもない!
      その日暮らしの 野良猫みたいに
      Huuu… Huuu…

         <間奏>

    住所もなければ かける電話もない
    手紙も出さなきゃ FAXもいらない
    ただ鼻をかむ場所さえあれば幸せ

    そこが俺の 楽しい我家
    たとえ狭くても 住み慣れた場所
    本当は誰もが ここに憧れてる
      金も欲しくない 見栄もない
      流行りのモノなど 関心ない
      俺の暮らしは ボロボロ紙袋
      Huuu… Huuu…
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いやー・・・夢のような暮らしですなあ・・・
Faxいらんでもインターネットには繋げにゃあ死んでしまうが・・・

小さい頃からお金持ちの家庭に育った俺。
ヒッピー文化、ウッドストック、学生運動、等は、
四国の片田舎に住む俺のところには、もう過ぎ去ったノスタルジーとして入って来た。
リアルタイムで経験してないから、一生の憧れである。

初恋の人に振られ、
傷心のまま東京にスネアとカセットデンスケ
(当時はウォークマンはまだない)
だけを持って家出。
ちなみにパンツとか着替えとかは、スネアのネジを外して太鼓の中に畳んで入れる。

家がないので友達のところに転がり込むが、
そこは同居人を認めないところで、すぐに追い出される。
早稲田の音楽サークルに潜り込み、
毎日誰かと酒を飲んで仲良くなって、その日はそいつのところに泊まりに行く。
誰か友達を作らないと寝ぐらがないんだから必死である。

金がなくなると、高田馬場の公園に始発で行って、
通称「立ちんぼ」と言う日雇い労働のアルバイトをやって日銭をもらう。
1日働いて6000円・・・
そのまま銭湯に行って、また居酒屋に行って酒を飲む。
音楽談義等をしながら友達を作って、そこに泊まりに行く・・・

俺は浮浪者に憧れていた。
ヒッピーを原体験したことがない俺は、
何となく憧れで、浮浪者達を「自由の象徴」みたいに幻想してたのね。

ある日、振られたはずの彼女が東京に遊びに来ると言うので、
「金を溜めよう!」
と「飯場」に入ることを決意。
まあ日雇い労働の10日間契約みたいなもんである。
バラックに投宿して、メシもつくので、
10日間勤め上げればそれらを差引かれても数万円残る。

でも俺は夜な夜な飯場を抜け出し、
高田馬場の居酒屋で飲んでは仲良くなって泊まり、
始発で飯場に帰ると言う生活をしていた。
もったいない!っつねん。

そんな中で、ある光景を目撃した。
一緒に働いてるオッサンが、現場監督に一生懸命取り入って、
何とか自分を楽な現場にまわしてもらおうとする姿だった。

幻滅した・・・と言うより目が覚めた。

ああ、この人達も、俺が嫌いだと思って飛び出した世界の人たちも、
みんな実はおんなじなんだなあ・・・

それ以来、ぱたっと日雇い生活にピリオドを打った。

いやー・・・でも、楽しかったなあ・・・

爆風がデビューしてしばらくして、
「あの頃の方が楽しかったなあ・・・」
と思う日が来た。
まあ、一段落した時に人間がよく思う心境である。

そのまま何となく成功してゆき、ある日中国のロックバンドと出会う。
「精神汚染音楽」とされていた当時のロックをやる若者達。
金もなければ家もない。ついでに仕事もあるわきゃない。

友達のところを転々としながら、メシを食わせてもらい、酒を飲む。
「もうぼちぼち出てってくんないかなあ」
と思われそうな頃を見計らって、次の友達のところに転がり込む。
またそこでメシを食わせてもらい、酒を飲む。
また頃合を見計らってまた次の友達のところに転がり込む。
そして友達を一巡して、最初の友達のところに戻って来た頃には、
「いやー、久しぶりだなあ、飲め、食え」
・・・とそれを延々繰り返すわけである。

「俺は中国人になる!」
と言わせるのに十分な世界だった。

その後、数限りなく北京に通ったが、
ホテルなんかとらずとも友達が山ほどいるので、
寝るに関しても食うに関しても困ったことはない。

そんな友達たちも今ではみんな偉くなって、
最近は北京に行って電話しても、みんな忙しくて誰も遊んでくれない。
これも時代の流れか・・・

当分は北京と日本の二重生活をすることになる俺だが・・・
もうある意味「ちゃんとしてしまった」北京より、
宿無しとなった日本の生活の方が楽しいかも知れない・・・

7月には1ヶ月間レコーディングスタジオを借り切った。
未唯さんプロデュースのROCOCOの2ndを録らなければならないからだが、
それだけでスタジオ代が払えるほど予算はない。
「よし、新生五星旗のレコーディングも一緒にしてしまえ!」
「よし、それだったらその1ヶ月に他の録れるアイテムも全部録っちゃれ!」
エンジニアをふたり用意し、12時間交代で24時間体制でレコーディングする。
何アイテム録れるだろう・・・
もちろんアイテム数が増えれば増えるほど各原盤製作費は安くつくと言うわけである。
俺は人が作業している間、スタジオで寝てればいい。
どうせ家はないのである。

楽しそうじゃのう・・・

ファンキー末吉


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