ファンキー末吉とその仲間達のひとり言

----第153号----

2010年1月24日7:45

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飛鳥クラブ再建計画

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子供が生まれてから日本にいることが多く、今回は久々の北京ネタ。
飛鳥クラブという日本人スナックがあり、そこのオーナーの飛鳥さんが他界された。
ギターを弾いてお客さんのリクエストに答えては「生オケ」で伴奏し、
無口でいつも笑顔で人の話を聞いてくれた。
今回はそんな飛鳥さんの物語である。
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私が最初に飛鳥さんとお会いしたのはもう10年近く前だったと思う。
レコーディングが終わってそのままエンジニアのKeizoに飛鳥クラブに連れて行かれた。
人のよさそうな飛鳥さんがステージでギターを弾いているのを尻目に、
当時独身だった私は店の女の子を一生懸命口説いていたのでその時はあまりお話をしていない。

その後、その女の子と正式にお付き合いすることとなり、
今度は彼女からいっぱい飛鳥さんのことを聞いた。
どうも飛鳥さんは店の女の子みんなと自分の娘のように接しておられたようだ。
彼女が「ギターを練習したい」と言うので飛鳥さんはわざわざ一緒に楽器屋さんに行って、
手頃な値段で、しかもちゃんとしたものを選んであげたと言う。

「君がいいと言うなら一緒に暮らしたい」
と言ってわざわざ飛鳥クラブの近くに借りた私のアパートに、
「来ちゃった」
と言って飛鳥クラブの従業員寮から引っ越して来た彼女は、
ちゃんとそのギターを担いでやって来た。

その後彼女と別れて後もそのギターはまだ北京のうちのスタジオにある。
彼女は結局「禁じられた遊び」の導入部分しか弾けなかったが、
いろんな中国ロッカーがこのギターでレコーディングをしたところを見ると、
なるほど飛鳥さんのお見立ては大したものだったのだろう。

彼女とは別れた後もいい友達である。
彼女は今では結婚して子供もいるが、
先日「飛鳥さんが重い病気にかかっている」と聞いて、
久しぶりに飛鳥クラブに一緒に飲みに行った。
彼女は当時働いていた時のチャイナドレスを来てはしゃいでいた。
飛鳥さんは相変わらずの笑顔でそれを見守っていた。

飛鳥さんの病気のことを聞いたのは北京に住む日本人からのメールだった。
「お店の10周年記念で飛鳥さんの曲をCDにして配りたい」
と言うので、
「それだったらうちのスタジオでやればいいじゃないですか」
と答えて1日だけのレコーディングを行った。

レコーディングというものは簡単にやればいくらでも簡単にやれるし、
細かくやろうとすればどこまでも細かく出来る。
歌入れの時に
「どうしますか?もう一度歌い直しますか?」
と聞いた時、飛鳥さんはこう言った。
「こんなもんでいいです。どうせ記念で配るぐらいのCDなんですから」

しかしこのCDは結果的に飛鳥さんの遺作となった。
飛鳥さんはそのことを知っておられたのか、
それとももうガンがかなり進行していて歌うのもしんどかっただけなのか・・・

日本の私の携帯に飛鳥さんの奥さん王姐から送られて来たSMSで、
飛鳥さんが亡くなったことを知った。
ご丁寧にCDのお礼を述べられたが、
遺作になるとわかってたらもうちょっとつきつめた方がよかったのか?
いや遺作になるからレコーディングをつきつめるなんてそんな縁起でもないことが・・・
などいろんなことを考えてちょっと複雑な気持ちだった。

なるみちゃんからメールが来て葬儀のことをいろいろ聞いた。
葬儀ではあの曲がずーっとかかっていたこと、
いろんな人がいっぱいいっぱい来てお別れをしたこと。
そして飛鳥クラブをもう閉めてしまうんだと言うことを聞いた。

奥さんの王姐は、本当は閉めてしまうのは悲しくって悲しくって仕方がないと泣いたと言う。
何とか出来ないか?
私もなるみちゃんもいろいろ考えた。
いろんな人に声をかけて、再建出来ないか相談した。

先月北京に行った時に、じゃあみんなで会って話そうよということになって集まったが、
その待ち合わせ場所はなんと、閉めたはずの飛鳥クラブだった。

もちろん看板に電気は灯ってないが、
店の内装はそのまま、客のボトルもそのまま置いてある。
「お店を閉める日にね、お客さんにボトル持って帰って下さいって言ったんです。
でも誰ひとりとして持って帰らなかったの・・・」
と王姐は言う。

店の大家としては、出て行くなら全部壊してもとのさらの状態にして出て行ってくれと言う。
しかし王姐としては店を壊すのも忍びない。
大家としては、じゃあそのまま置いとくなら家賃をそのまま払ってくれと言う。

結局壊すのも金がいるし、残すのも金がいるし、
壊すに壊せない、残すに残せない状況なのが現状なのだ。

その場にいた高山さんにいろいろ意見を聞いた。
北京で何軒も店を経営しているんだからその辺のことに関しては熟知している。
彼の見解としては
「今の北京をとりまく経済状況で、この店に再投資して利潤があがるというのは難しいと思います」
との答えだった。

上海で居酒屋を何軒も経営している勝山さんに意見を聞いた。
「商売としては北京は今難しいみたいですけどねえ・・・
飛鳥クラブ再建を待ってる人が少なからず何人もいるんでしょ。
だったら少しぐらいのお金は出してもいいですよ、再建しましょうよ」

その他、
「再建してやっぱりダメだになって、関わった人がまたお金でもめたりしたら
それこそ飛鳥さんが一番悲しむことだから再建には反対だ」
と言う人もいる。

いろんな人に意見を聞いた。
なるみちゃんは日本に住む飛鳥さんのお嬢さんに会ってこのことを相談した。
飛鳥さんは王姐と結婚する前の奥さんとの間に娘さんがいて、
その娘さんはお母さんももう先に亡くなって、
今身よりはと言えば北京にいる飛鳥さんの忘れ形見である王姐との息子、
つまり腹違いの弟だけなのだと言う。

彼女が現在住んでいる日本の住居は飛鳥さん名義の公団で、
飛鳥さんが亡くなったので出て行かねばならないとか、
現在の仕事の問題とかいろんなタイミングが重なって、今では
「北京に行って、お父さんの残した店を守りたい」
と言う気持ちになっていると言う。

私はとるものもとりあえず娘さんと会った。
飛鳥恵美子さん、
そう言えば飛鳥さんの面影を少し残した、明るく美しい忘れ形見がそこにいた。

「本当にやりたいの?異国の地で大変だよ」
私はそう聞いた。
「私、やりたいんです。頑張ります!!」
いろんなアイデアもやりたいこともいっぱいあると言う。
やる気まんまんで燃えている。

聞けば恵美子さん、北京の飛鳥クラブに来たこともあるし、
王姐との仲もよいどころか、法律的にも今は王姐の籍に入っていると言う。
王姐は王姐で恵美子さんと一緒に暮らすために新しい部屋に引っ越ししたと言う。

それならば何も問題ないではないか!!

しかし店の名義、資金、運営等問題は山積みである。
しかし娘さんがその意思があるなら人は必ず集まって来る。
飛鳥さんの残した店が、娘さんの店となって生まれ変わるのである。

それだったらお金を出してもいい、そう言う人も現れて来た。
私も持ってる中国元は全部吐き出してもいい。
投資とかそんな商売っけではない。
「恵美子さん、お店を再建するお金はお父さんの知り合い達が出してくれる、
あなたは今から頑張って店を軌道に乗せ、利益の中から一生懸命そのお金を返すのよ。
全部返し終わったその後には名実共にそのお店はあなたのもの。
あなたがお父さんの忘れ形見の弟さんと継母である王姐をこの店の売り上げで面倒見てあげなさい」

この店が成功すれば飛鳥さんの喜ぶ姿が目に浮かぶ、
そして失敗しても・・・私やその他お金を出した人はまた笑ってお酒を飲もうではないか。

とりあえず今月末に私は恵美子さんと一緒に北京に行く。
北京にいる日本人の方でこの話に興味を持ってくれる人、
何か手助けをしたいと考えてくれる人は是非一度私たちを訪ねて来て下さい。

連絡先:funky@funkycorp.jp

ああ・・・またこんなことに首を突っ込んでしまった・・・
これも性分なんだから仕方がない・・・

ファンキー末吉


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