ファンキー末吉とその仲間達のひとり言

----第104号----

2004/11/17 (水) 17:06

ホリプロの堀さんが北京にいらっしゃった。

非常に懐かしい!
お会いするのはもう5〜6年ぶりではなかろうか・・・

あれは10年ほど前の話・・・
日本は「アジアブーム」に浮かれ、
雑誌やメディアはどこでも中国ネタを取り上げ始め、
企業は不景気から抜け出せない日本から脱却すべく中国に夢を見た。

そんな中で
その数年前に既に中国にかぶれ、挙句の果てに中国人と結婚して
家庭内言語を中国語で暮らしているアホなドラマーにみんな興味を持った。

いちいち呼ばれて飲みに行くのもめんどくさいので
新宿で中華料理の屋台「萬吉」を開き、
そこで定例の如く業界の人間が集まってアジアの話をする、「アジア会」
と言うのがいつの間にか始まりだした。

日本で初めての中国ロック専門のレーベルを設立したJVCビクターを始めとし、
中国ロックの創始者「崔健(ツイ・ジェン)」を日本デビューさせた東芝EMI、
酒井法子を有するサンミュージック、
「第二の山口百恵」を探すべく中国で40万人オーディションを開き、
現地でプロダクションも設立して
中国の「ホリプロ3人娘」をデビューさせたホリプロ、
他、全アジアに支社を設立したポニーキャニオンや
中国最大のレコード会社ロックレコード等々、
中国と音楽に関係のある全てのそのトップの人たちが
何故かこのキタナイ屋台に毎月顔を出し、
北京家庭料理を食いながら北京の二鍋頭酒と言う56度の白酒を飲んでアジアを語った。
堀さんともこの中で出会ったである。

今思えばそうそうたるメンバーであるが、
思い起こせば北京にアミューズ北京まで設立して本格的に中国進出に乗り出した
所属事務所であるアミューズの国際部だけがあまり顔を出さなかったように思う。
アミューズだけが何故かワシを相手にしてくれなかったのである。

そんな風だからワシは
アミューズに所属しながら、爆風のレコード会社であるSONYではなく、
言わばライバル会社と言ってもよいであろうホリプロからソロアルバムを出すこととなり、
結果ワシの夢は叶い、「亜洲鼓魂」は日本と中国で発売され、
そのまま華僑ネットワークでアジア中の国々にライセンス(か海賊版か知らんが)された。

その後、そのアルバムで歌を歌ってもらった新人歌手、
「李慧珍(リー・ホイチェン)」のデビューアルバムをプロデュースし、
彼女は結果的にホリプロ中国三人娘より先に成功し、
いろんな新人賞を始めとしてワシも十大金曲作曲賞を受賞、
それが認められて日本レコード大賞アジア音楽賞を受賞した。

その受賞パーティーを
所属会社であるアミューズではなくホリプロ仕切りで開催するのも変な話であるが、
そのパーティーの席で堀さんはスピーチでこう言ってウケをとった。

「もうアジアはこりごりですよぉ。みなさんもういい加減にやめましょうよ。
結局得した人はファンキー末吉ぐらいなもんなんですから」

そして堀さんの言う通りそのままアジアブームは収束を向かえ、
全ての音楽系企業は中国から撤退した。
JVCも、ポニーキャニオンも、アミューズも、そしてホリプロも・・・

あの時アジア、アジアと声高に言ってた人は、
熱病がさめたかの如く本業に戻り、もしくは今度は韓国ブームに踊らされ、
ワシだけがこうして今、北京で暮らしている。

ワシは本当に得をしたのか?

こちらに来て徒然に考えてみた。
「何でワシはこれほどまで中国が好きやったんやろう・・・」

確かに「友人のためなら人をも殺す」と言う北京人気質は大きい。
中国ロックも大きな感銘を受けたし、
食文化をはじめ、ここの生活や風土(極寒の冬を除く)も大好きである。

ワシは死ぬならここ、北京で死にたいと思っている。
いや、そう心に決めている。

なんで?・・・

BEYONDの黄家駒が死んだりして、
まあ年をとるといろいろ考えたりもするんだけども、
思うにまあ人間生きてるうちに出来ることってそんなにないのよね。

いろんな夢見て挫折して、またいろんな夢みて、それでも結構叶って来た。
レコードデビューも出来たし、挙句の果てに個人名義のソロアルバムまで出してもらった。
ドラマーの夢である自分モデルのスティックまでPearlさんに作ってもらっている。
あの程度だが金持ちになったこともあるし、美人女優と浮名を流したこともある。

でもある時、自分の若い頃の夢を思い出した。

当時の四国の片田舎ではレコード店には演歌と歌謡曲しかなく、
探して探してロックやJazzのレコードを手に入れた。

そこで聞いた数々の音楽、それはワシにとってかなりの衝撃だった。
「この人たちは人間ではない」
そんな神様にワシはなりたかった。

本当はJazzピアニストになりたかったが、
選んだ楽器と言うか楽器に選ばれたと言うか、
手の小さいワシは縁あってスティック握ってドラムを叩いている。

ニューヨークに行ってJazzをやるか、東京に行ってロックをやるか、
でも縁あって東京に行ってバンドをやり、
親の功徳か前世の成就か、
はてまた死んだ姉の霊的加護のおかげか何故かあのような成功を収めることが出来、
しかしひとつの成功はまたひとつの苦悩を生む。

まあ今思えばあの成功はワシには分不相応に大きすぎたのと、
あと、ちょっとだけ種類が違っていた。

テレビなんかでアイドル達とご一緒させてもらうと思うけど、
やっぱあの人たち・・・凄い!
歌手の人たちもやっぱ・・・凄い!

こっちでまたプロデュースするハメになった新人の女の子も、
やっぱインタビューした時に言うとった。

「私もいつかあんな風に大勢の人の前で歌ってテレビにも出て、
みんなに知られてて、愛されてて、そんな大きな歌手になりたい」

みんな凄いわぁ・・・
ワシ・・・悪いけど一度もそんな大それた夢みたことない・・・
恥ずかしいわぁ・・・あんなプロ達と一緒にテレビなんか出て・・・

顔も売れるから人にサインを求められたりもする。
「爆風の人ですか。ファンなんです。サイン下さい」
サインしながら時々こう聞かれる。
「あのう・・・爆風の何やってる人でしたっけ・・・」
そんな時は時々黙って「パッパラー河合」と書いたりする。

ワシはやっぱ日本にいると永遠に「爆風の人」である。
ところが北京ではワシはただ「ドラムのうまい人」である。

ワシは別に街歩いてて振り返られる有名人になりたくて東京出て行ったわけではない。
ワシはただ・・・あの時聞いたレコードの中の・・・あんな・・・
神様になりたかった・・・

まあ今だに神様からは程遠いが、
ワシはここにいれば「ドラマー」として生きられるのでここにいる。
ここはワシにとってほんの少しだけまだその頃の夢に近いのである。

そしてそのスタートとなったのが
アジア会がきっかけとなって生まれた「亜洲鼓魂」なのである。

若いミュージシャンと初めて仕事をする時に、
「高校の頃あのアルバムを聞いた」と言われることが多い。
あのアルバムは中国の今のワシには非常に大きな地盤となっているのである。
だから堀さんが北京に来ると聞いたからどうしても会ってお礼が言いたかった。

「堀さん、あのアルバム出してくれてありがとう。
あれがあるから今のファンキー末吉があります」

夕べは堀さんと、李慧珍(リー・ホイチェン)、
そしてホリプロ3人娘としてデビューしたダイヤオも来てて懐かしかった。
あれから10年近く会ってないのである。

なにせこのワシの最近の生活である。
若い娘と話をすること自体が久しぶりなのでそれだけでも感激しているのに、
懐かしい上にまたふたりともしばらく会わない間に美人になって、
そしてやっぱ現役の歌手なので何より華があるね。

李慧珍(リー・ホイチェン)なんか初めて会った時はまだ18歳とかそのぐらいだった。
アルバムのレコーディングの時に20歳の誕生日を祝ってあげた記憶があるから、
・・・もう三十路?・・・
ダイヤオは確か・・・彼女より年上?・・・

見えんのう・・・

会社が撤退して堀さんがその後の彼女たちを非常に心配してたけど、
大丈夫、彼女たちは十分たくましい。
ホリプロは確かに金銭的には損をしたのかも知れないが、
でもそのおかげで今、彼女たちがいるし、そして何よりも今もまだ歌を歌っている。
これは素晴らしいことだと思う。

ついでに今のワシもいるし、今もドラム叩いている。
(小さいフォントで書いたつもり)

確かに10年前のアジアブームで、
中国で損した人の話はよく聞くがあまり儲けた人の話は聞かない。
2008年オリンピックが近づいたら、また日本が中国ブームに沸いたりするんだろうか。
そして加熱するだけ過熱したらまた何事もなかったかのようにブームが去り、
残された人の中で儲けた人もいれば、また損した人もいることだろう。

でも得をすると言うことは何も銭金のことだけではない。
ワシはそりゃ中国のおかげでひと財産潰したが、でもおかげで今の生活を得た。

うん、ワシは確かに一番得したかも知れん・・・

ファンキー末吉


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